2009年2月12日木曜日
自己紹介 #5 ボブ, テーラーさん
ボブテーラさんの弟さんはレナードで竹の選別、焼きこみ、カット、ノードを抑えたり、
ベブラーにセットし、下準備をされていました、今もボブテーラさんの作る竿は、彼が、
グルーを付けるるまで、手伝っておられます
74年度は永住権の申請を始めました 10月中頃には手に入っていました
これがないと仕事もアメリカで住む事も出来ないと 言う事です
カメラの修理と言う仕事は結構特殊技術だそうです、?
誰でも彼でも出来るわけではないそうです、と、世間では言われています
日本でも経験はしてますし、うそ偽りはないし、取れる条件は有ったんですが、、?
高校時代、写真部顧問の橋本先生が神戸の領事館に知り合いが居られて、卒業証明書
人物証明書、領事の推薦状、トランスファしてアメリカの赤いリボンが斜めに掛けてあり、
アメリカ領事館の割り印と言うんですか、凹凸が入って、を、送って頂いたんです
その時は、この書類が凄い物だとは認識できなかったんです、、が、、永住権も
すんなり、問題なく取れるわけです、、ずいぶん後になってから、そういうのが、見えてくるように
成りました、、橋本先生、ありがとうございました、
アメリカでのカメラ修理のランク、見せてもらいました、、役13年掛かりました、、
解ったら、これ以上やりたくないやぁ、、で、、止めました、、
惜しいなぁ、、これから稼げるのにぃ、、という人もいてました、、、
この年にポンコツキャンパーを京大医学部からペンシルバニア大学医学部に来られていた
itada先生が作るから、、手伝え、、という事になって、毎週、金曜日夕方、バスか電車に
乗ってフラデルファまで行きました、春から秋まで係り、シェイビバンー64年のオートマ と
66年のマニアルから使えるパーツを取って、 まず、概観の板金作業から、始まり、
エンジンは64年、トランスミッションは66年のマニアルを、走るときは椅子に夜は広げて
ベットに、、屋根に空気出口を、? 冬になりかけで動かす事ができました、、
塗装はプライマーまで遣りましたが、寒くなっては乾かないという事で塗れていません
外観はつや消しのグレイカラーです 中身は素人細工の大丈夫かなぁ、、です、、、?
運転席と助手席の間にエンジンが有るんです、が、、うるさい、んです
大声でしゃべらんと何を言ってるか、聞こえない、車自身もあっちこっちがたがた、で、
確かクリスマス時分にオペラを見に行くから立ち見席を買っておいてくれ、と、
奥さんを助手席に乗せて来られたんです、この助手席も、ペッタン子の座布団と背もたれ、
64年の商用車です、それもポンコツ素人細工です、、奥さん、怒りましたっよ、、
この車いやや、、って、、それで、僕にこの車、乗れって事になったんです
1年ほど使いました、、面白かったです、、、 アメリカに来て始めての車でした、、?
日本でもポンコツに馴染んでいましたから、、、この車の楽しい思い出、、いっぱいあるんです
何が起こっても楽しかったんですねぇ、、? 怖さ、まったく無しでした、、???
若さ、、というこでしねぇ、、
itada 先生 は 76年頃に京都に帰られて、‘‘‘ 京大病院の副院長をしてるど、、””
手紙が来たなぁ 、、= 日本でなら、声もかけてもらえない人なんだろうなぁ、、、、
暫くして、‘‘‘‘ 俺はガンに掛かってるぞぉ、、’’’’ わからんなぁ、、?
紺屋の白袴、、 お医者さんがガンに掛かるのかなぁ、、で、、‘‘‘ 薬はのまんぞぉ、、’’’
と、来るんだから、、 = 副作用が有る、、、と言う事でした、、 何か、、わけのわからん、、?
細胞を、研究してるとか、、? は、、聞いていたんですが、、
日本に帰られる時、JBLのパラゴンスピーカを、持って帰られたなぁ、、 ターンテーブルは
トレー ンス124 を スピーカは壁に自作でした、時々、ジャズを聞かしてもらったなぁ、、、
プリアンプ、、パワーアンプは何を使っておられたんでしょう、、記憶は無いんです
天気が悪くって、車の修理が出来ない時は、ミュウジアムに行ったり、ア-ミッシュ夏のマーケット、 観光を兼ねてです、、先生のお友達の別荘に、行ったり、、? 色々、経験さしてもらったなぁ、、
ブルーフィッシュを釣りに行って、カツオを釣ったのも、先生といっしょ、だったなぁ、、、
その頃の写真、懐かしいです、、公表したいけど、、恥ずかしいんで、出来ません、、、、、
kazu 2/15 2009 Sunday 4:20am
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